「指導しない」練習について

職場では一学期の公演が終わり、
秋の芸術鑑賞シーズンに向けて、
新しい作品の制作に取り組んでいます。

今日はオープニングなどで踊る、
ダンスの振り付け練習をしましたが、
稽古を受けながら、一方で
「もっと練習に娯楽性があれば」
という感情も湧き上がって来ました。

もちろん、お給料を頂いて
勤務しているわけですから、
上記のような気持ちは慎むべきかもしれませんが、
それでも井上ひさしさんの言うように
「真面目なものを愉快に」の精神で、
稽古をすることが出来れば、と思ったのでした。

私が練習につまらなさを感じる時、
そこには「指導者の一方通行」のみで、
こちら側のアイデアを受け入れてくれない、
という時間を過ごしている時です。

逆に、私が練習を楽しいと思える時、
そこには「双方向性(インタラクティブ)」
な雰囲気が存在している時です。

(でも例えば妻のいっちゃんのように
「一緒に考える、というのはまだるいので、
ちゃっちゃやりたい」
という人がいるのも忘れてはいけません。)

事実、以前に紹介した
ソーシャルセンシティビティ」のように、
「一人のカリスマに従う」よりも、
『話者交代』があるほうが、
全体のパフォーマンスが上がる、
という考え方も広まってきています。

【テキスト】には「真実」が書かれていて、
指導者がその真実に受講者を導く、
という方法も、確かに大切な練習スタイルですが、
【テキスト】を「仮説」と捉えて、
参加者同士で実験を繰り返しながら、
失敗や発見を経験することによって、
作品を共に創り上げるスタイルも良いよなあ、
と私は思っています。

世間で行われている「練習」では、
現在も「指導者」が「未熟な受講者」に
「上手くなるための(目的のある)指導」を
行っている、という風景が未だに一般的でしょう。

別に否定をしているわけではありません。

でも、その制約から解放された、
自由な雰囲気の練習が、
参加者のモチベーションを引き出す、
ということも充分にありえると思います。

土曜日の保育園での子どもとの練習では、
先生に「橋爪は子ども達を一切叱らなかった」と
おっしゃって頂きましたが、私にはあんなに
生きるエネルギーで満ちている子どもたちを
全く叱ろうと言う気にはなりませんでした。

もちろん、自由な雰囲気の練習では、
「まとまりがない」と思う人もいるかもしれませんが、
束ねることによって失われる生命力が、
少なからずあるはずです。
指揮者は演奏者のエネルギーを上手く引き出すことが
大切な役割の一つ、ではないでしょうか。

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