ワークショップとは、お互いに気づきあい、学びあう場だよ

「ワークショップとは、お互いに気づきあい、学びあう場だよ」。

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京都市立山科中学校の合唱部と、私が指揮する合唱団(アンサンブルエバン)が行った『一緒に歌おうワークショップ』(大人と子どもが集い合い、歌いあう取り組み)をする際に、私は子ども達やエバンのメンバーに、ワークショップについてそのように説明した。「レッスン」での【学び】は、「ワークショップ」に比べると一方的だ。先生(教える側)と生徒(教えられる側)の役割は常に固定されている。「知識を持つ大人」が「未熟で真っ白な子ども」に指導する、という構図がレッスンでの一般的な【学び】だろう。

もちろん、レッスンそのものは必要不可欠だ。例えば合唱の分野においても、「楽譜が読めるようになること」などの知識や、「いかにして声をコントロールするか」などの技術を習得していくことは、合唱団が成長していく上で必ず通らなければならない道である。しかし、成長を急ぎ、練習が効率的になりすぎる現代の合唱の現場で、失われていくものも少なからずあるように、私は感じている。それを補填してくれるのがワークショップの役割だ。

ワークショップは「先生や講師から一方的に話を聞くのでなく、参加者が主体的に論議に参加したり、言葉だけでなくからだやこころを使って体験したり、相互に刺激しあい学びあう、グループによる学びと創造の方法」(中野民夫)と定義されている。ファシリテーター(活動を進行しながらも、現場で起こる出来事に対応しながら活動を支援する人)は確かにプログラムを進めてはいくが、活動の主役はあくまで参加者側にある。ワークショップには、大人と子ども、男性と女性、声の大きい人と小さい人、、など、立場の違う人々が集まる。そうした「普段の生活では混ざりにくい」彼らを繋げあい、刺激させあい、越境していく現場を生み出すことが、ファシリテーターの大きな仕事の一つだ。

ワークショップデザイナー(WSD)として、人生で初めて企画して取り組んだ『一緒に歌おうワークショップ』(同期のWSD仲間や、東京、松山、大津の先輩WSDのお力をお借りしたことを、本当に感謝している)では、子ども達やエバンのメンバーに「気づきあい、学びあう」場を提供出来ただろうか。

【合唱ゲームを作ろう】では、大人と子どもが交流する中で、お互いの知識やアイデアを出し合い、一つのゲームを作り上げる、という取り組みをした。合唱部のある子どもから「私自身もすごく楽しかったし、見たことのない笑顔で笑っている一年生をみて、やっぱ合唱は楽しまなあかんなと思いました」という感想を頂いた。おそらく「ワークショップ」は「レッスン」よりも、一年生の笑顔に触れる時間を多くするだろう。おそらく「ワークショップ」は「レッスン」よりも、「合唱は楽しまなあかんな」という、合唱の本質について考え直す機会を多く設けるだろう。また、合唱部の元気の良さ、発声の無垢さに触れた大人たちは「良い発声とは果たして何か」について問い直す機会を子ども達から頂いただろう。

7/13はワークショップの成果を山科駅「音の広場」にて、合同演奏という形で発表したが、その際、「合唱の楽しさ」に気づいたその子にソロをお願いした。その子は、誰に促されるでもなく、休憩時間に、自発的に、エバンのメンバーに発声の個人指導を受けていた。その瞬間ほど、レッスンが効果的に機能する時間はないように思う。私はその光景を遠くから見ていて、ファシリテーターとして本当に嬉しかった(と同時に、指揮者としてちょっと寂しかったことも告白しておく)。

厳しい「レッスン」が先行する中で、失われていく可能性の高い、「歌う喜び」や「上手くなりたいというモチベーション」をワークショップはすくい上げる。そして、参加者が自発的に「前進」を求め始めたら「レッスン」を導入する。私は今回、子ども達からそれらのことを学んだように思う。

「ワークショップとは、僕も、君も、お互いに気づきあい、学びあう場だよ。」

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